「歴史」カテゴリーアーカイブ

日本橋~♪

皆様、こんにちは♪ NANAシステム開発 HYです。

先日、出張で東京に行きました。
その時に、日本橋の近くまで行きましたので、東京市道路元標を見に行ってきました。
レプリカではありますが、道路の歴史を少し感じました。

【1575年】長篠の戦い

天正3年5月21日、三河国長篠城の近くの設楽原で織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が激突!!

織田軍3万 徳川軍8000 / 武田軍1万5000

長篠城攻防戦

長篠城の城主、奥平貞昌は武田氏の進行を受けて従属していましたが、元亀4年4月に武田信玄が死亡すると、徳川氏に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなりました。

天正3年5月8日、長篠城は、勝頼率いる1万5000の武田軍の包囲されました。城兵は、約500人でしたが、周囲を谷川に囲まれた要害であり、鉄砲を用いて何とか防衛を続けていました。

5月13日、武田軍から放たれた火矢によって兵糧庫が焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められました。

鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)

5月14日、武田軍は総攻撃を仕掛けました。城中の食糧はあと4、5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜け出しました。

5月15日の朝、かんぽう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走り続けました。(約50kmほど)岡崎には援軍の織田信長も到着していました。家康、信長の前で城の危急を訴え、それを見てまわりの人々も感動しました。使命を果たして、休養を勧められましたが、彼はすぐに長篠城に引き返しました。

5月16日の朝、再びかんぽう山で「援軍来たる」の狼煙を3発。そして長篠城の対岸まで来ましたが、厳重に警戒する武田軍に捕らえられてしまいました。

武田軍から「援軍は来ない、城を開け、武田軍は厚くもてなす」と言えと説得されますが、「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」と叫んだため、対岸の篠場野の地で磔にされて処刑されてしまいました。鳥居強右衛門 (享年36)

2日後の18日、織田、徳川連合軍3万8千は、設楽原に到着しました。

馬坊柵(ばぼうさく)

信長は、岐阜より進軍の際に鉄砲を持たない者に丸太を持たせ、設楽原に到着すると直ぐに馬坊柵の構築を行いました。

鳶ヶ巣山への奇襲

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の烈士を率い、長篠城関しのために残留していた武田軍の5つの砦を奇襲しました。

設楽原方面に進出していた両軍は、背後の鳶が巣砦の銃声をきっかけに戦闘開始となりました。

最強武田騎馬隊 vs 織田・徳川鉄砲隊

織田・徳川連合軍と武田軍の雌雄を決する一大決戦が設楽原で壮絶に繰り広げられました。この戦いが織田・徳川を打ち倒す好機と考えた武田勝頼、騎馬隊による波状攻撃を繰り広げました。一方、織田・徳川の鉄砲隊は、馬防柵を設置し、平地ながら城を想定したような守りの布陣で応戦したのでした。

武田軍は、鶴翼の陣(鶴が羽を広げたような布陣)、右翼に馬場信春、左翼に山縣昌景とし、山縣の赤備えの甲冑隊を先鋒に突撃を開始しました。

鉄砲3000挺 3人1組の布陣

織田軍は、鉄砲隊3000を3人1組(打ち手、玉込め、煤払い)とし、鉄砲自体を交換するように渡し、次発までの準備時間を短くすることで武田軍に付け入る隙を与えませんでした。

しかしながら両翼の山県隊、馬場隊の猛攻に、織田軍は両翼に援軍を増員しました。中央が手薄になったところを内藤昌豊隊、真田信綱隊が馬坊柵を切り崩し、織田信長本陣近くまで切り込みました。織田軍は、これを鉄砲隊で囲むように配置し、一斉射撃を行うことで多くの武田兵を殲滅しました。

山縣昌景は、300騎を率い総勢1500の兵で、6000余りの徳川軍に奮闘しますが、馬上で銃弾を受けて討死しました。(享年47)

土屋昌次は、大声を張り上げながら、織田・徳川連合軍の馬坊柵を三重のうち、二重まで突破しました。この時に一斉射撃を受け馬坊柵にもたれながら討死しました。(享年31)

武田軍の撤退

馬坊柵と鉄砲隊、なにより人数差があるなか、午前6時頃から始まった戦いは、午後2時まで8時間にわたり繰り広げられましたが、数で劣る武田軍は撤退を余儀なくされました。

馬場信春は、たった700の兵で、丸山に陣取った6000余の佐久間信盛隊に攻撃をしかけ、ついには丸山を奪取していました。最後まで戦線を保った馬場隊は武田軍の殿を務め、勝頼が撤退したのを見送った後、反転し追撃してくる織田軍と戦い討死しました。(享年61)

信長公記では、長篠の戦いで「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と記されています。

織田・徳川連合軍には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、武田軍は多くの名だたる武将が討死し被害は甚大でした。(山縣昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など)

武田勝頼は、わずかの旗本に守られながら信濃の高遠城に後退しました。

最後に。。

長篠の戦いは、歴史的には織田・徳川連合軍の圧勝となっていますが、8時間という長きに渡り戦ったことから決して一方的な展開ではなかったんだと思います。

また、3万8000の兵に、1万5000の兵で果敢に攻めていく武田軍、馬坊柵が無かったら、もしかして?と思ってしまうのは私だけでしょうか。

色々調べていく中で織田軍の戦略、武田軍の魅力が詰まった決戦だったんだと感じます。日本の歴史って本当に面白いですね。

設楽原歴史資料館では、鉄砲や鎧がたくさん展示されています。ぜひ一度足を運んでみてください。

【1572年】三方ヶ原の合戦

三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、
武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。

最強の騎馬軍団を率いる武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人。
徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走しました。

この時、家臣の夏目吉信は、家康の兜と馬を以って
「我こそは徳川家康なり」と叫び武田勢に突入。
家康を逃がすために身代わりとなって戦死しました。

家康は、命からがら浜松城に逃げ帰ったのですが、
この時の恐怖のあまり脱糞したとも伝えられています。
 
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、
帰ってくる味方を迎え入れます。
逆に武田軍は、これを計略ではないかと警戒し、
城に攻め込みませんでした。
実戦経験の多い武田軍武将の心理をついたのか、
それとも単なる偶然か?
 
合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、
三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。
崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。
現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。

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また、家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。

謎の多い三方ヶ原の合戦、色々な逸話もありますが
私が特に気になる点を4つあげてみました。
調査結果は、疑問点を色々な著書や資料から調査し、
私なりに想像して纏めてみました。


疑問① : なぜ武田軍は、織田(/徳川)軍に戦を仕掛けたのか?
そもそも武田家と織田家は同盟国であり、
織田家の長男 : 織田信忠と武田の姫(松姫)は婚約をしていました。
武田信玄といえば、日本を代表する戦略家の印象。
織田を裏切るとしても、効果的な戦略があったのでは?
と思ってしまいます。
 
【調査/考察】
同盟破棄も戦略の1つとしていた信玄らしい考えと思います。
一説によると比叡山の焼き討ちの件も信玄の怒りを買った1つということもあり、延暦寺を甲斐に移す計画まであったそうです。
また、西は本願寺、北は朝倉/浅井連合とその他大名達と信長を包囲する動きがあり、織田家を東から攻撃すると美濃(現在の岐阜県)を攻撃することになりますが、
その際に浜松の徳川家に背後を突かれることを懸念し浜松から攻めることを決めたようです。

疑問② : 家康は、なぜ城を出て戦ったのか?

書籍や記録から見ると、浜松城の目の前を3万の大群が
通過し、その後、100人程度の武田兵(小山田信茂)が石を投げながら
罵声を浴びせたところから、逆上し出陣したと言われていますが、後に日本を統一するほどの人物(徳川家康)が、
たったそれだけの事で籠城作戦を変更して、
当時最強の武田3万の軍隊に勝ち目のない戦を挑むのだろうか?
 
【調査/考察】
1万の徳川/織田連合軍は、3万の武田軍に対し、浜松城に籠城し、
時間を稼ぎ、織田の後詰(援軍2万)を待って武田軍を挟み撃ちにする作戦だったという説があります。
ところが、籠城して時間をかせぐどころか武田軍は浜松城を攻めず、
そのまま目の前を通過し、北上してしまいました。
無傷の3万の武田軍が、織田援軍2万に対し侵攻すると織田軍が壊滅してしまいます。
しかし、単に城外へ誘い出す罠であれば、徳川家が滅亡してしまいます。
この時、家康は究極の選択をしなければなりませんでした。
浜松城には織田家の援軍がいたこともあり、
家康は出陣せざるをえない状況となったのだと思います。

疑問③ : 戦陣として、人数の少ない徳川/織田連合軍が「鶴翼の陣」、人数の多い武田が「魚鱗の陣」??逆なのでは?

【調査/考察】
徳川/織田連合軍の「鶴翼の陣」は実は包囲することが目的ではなく、
武田本隊と遭遇した場合に逃げやすいことも考慮した戦術ではなかったかと思います。
鶴翼の陣は、左右に広がって陣を張り、徳川本隊は後ろに位置し戦線離脱しやすい。
それに対し、武田軍の「魚鱗の陣」徳川軍の殲滅を目的とせず、
徳川家の本隊のみを叩き、武田兵の消耗を最小限にしたかったのでは?
と思いました。
三方ヶ原の合戦後、浜松城を落とさず三河に北上したことからしても
武田軍にとっては、あくまで浜松は通過点だったようです。
また、当時戦国最強の騎馬軍団と言われた武田軍3万に
たった1万の軍勢で立ち向かった徳川家康、
負け戦だったけども全国にその名を轟かせたとのことです。

疑問④ : 信玄は、なぜ上洛をあきらめ甲斐に引き上げたのか?

浜松城を落とさず、京への上洛もせず
引き上げる結果となった原因は何か?
【調査/考察】
信玄の病が重くなったという説が通説ですが、
野田城からの銃撃で深手を負ったという説もあります。
現在では、新城市の設楽原資料館には信玄を撃ったとされる
「信玄砲」が展示されています。
また、1572年12月28日事件が起こりました。
近江に出陣しているはずの朝倉軍が信長が岐阜に帰還した直後に
帰還していたのでした。
そのまま一斉に攻めれば、倒せたものを、これは完全に敵前逃亡に近いのです。
朝倉家によれば、信玄が信長を倒したところで、信長が信玄に変わっただけで
朝倉家にメリットがないとの判断だった様です。
この結果、信長は朝倉軍撤退で浮いた兵力を三河に回すことができるようになりました。
信玄の病状も悪化する中、武田軍は作戦の継続を断念せざるを得ない状況となりました。
1573年3月9日に帰国の途についたが、時すでに遅く戦国屈指の名将と謳われた武田信玄は、
同年4月12日信州駒場で帰らぬ人となりました。

三方ヶ原の合戦からついた地名
●小豆餅、老婆事件
家康が浜松城へ敗走中に腹が減り、茶屋の老婆から餅を買うも追手が来たため、食い逃げをしたのですが、老婆が全力で追ってきて代金を徴収したのです。三河の商人はさすがです。
この事件からついた地名の由来で、
茶屋があったところには、「小豆餅(浜松市中区の町名)」、

代金を払ったところには、「銭取(浜松市中区和合町の地名)」の地名が付いたと言われています。

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●犀ヶ崖の戦い
崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落しました。
その伝承によって「布橋(浜松市中区の町名)」と言う地名がついたと言われています。
 

九死に一生を得た家康が、その後天下を取るとは、この時は誰も想像できなかったでしょう。
日本の歴史って本当に面白いですね。